2009年06月16日

ネコ(猫、学名:Felis silvestris catus)

ネコ(猫、学名:Felis silvestris catus)は、世界中で広く飼われているネコ目(食肉目)の小型動物である。元来、ネズミを捕獲させる目的で飼われ始めた(狭義の)ヤマネコ(Felis silvestris)の家畜化されたものといわれ、分類学上はヤマネコの1亜種とされる。人によくなつくため、多くが愛玩用のペットとして飼育されている。本項ではこれについて解説する。

また「ネコ」は、ネコ類(ネコ科動物)の一部、あるいはその全ての獣を指す包括的名称でもある。しばしば、家畜種の「イエネコ」に加えて広義のヤマネコ類を含み、特に学術用語としては、英語の「cat」と同様、トラやライオンなどといった大型種を含む全てのネコ科動物を指すことがある。

イエネコは、形態学的分析を主とする伝統的な生物学的知見によって、以前からリビアヤマネコ(Felis silvestris lybica)が原種とされてきた。 また、20世紀後半から発展した分子系統学等による新たな知見も、従来説を裏付ける形となった。 米英独等の国際チームによる2007年6月29日の『サイエンス』誌(電子版)への発表では、世界のイエネコ計979匹をサンプルとしたミトコンドリアDNAの解析結果により、イエネコの祖先は約13万1000年前に中東の砂漠などに生息していたリビアヤマネコであることが判明した[1]。
バンジージャンプ
地球温暖化
体外離脱
白血病
花見
VDT症候群
元素周期表
油彩画
民話
翻訳
賃貸借
水上スキー
漢方薬
スキー
心療内科
妖怪
血液学
近畿地方
ウエストナイル熱
中国地方

愛玩用家畜として同じく一般的なイヌ(Canis lupus familiaris)に比して、ネコは飼育開始の時期が遅いが、これは家畜化の経緯の相違による。イヌは狩猟採集民に必要とされたため、早い時期から人の社会に組み込まれ、狩りの伴侶、外敵への備え、幼子の保護者となった。しかしネコは、農耕の開始に伴い鼠害(ネズミの害)が深刻にならない限り有用性が無く、むしろ狩猟者にとっては競合者ですらあった。その競合的捕食動物が人のパートナーとなり得たのは、穀物という「一定期間の保管を要する食害を受けやすい財産」を人類が保有するようになり、財産の番人としてのネコの役割が登場した事による。また、伝染病を媒介する鼠を駆除する事は、結果的に疫病の予防にもなった。さらに、記録媒体として紙など食害されやすい材料が現れると、これを守る事も期待された。日本へは、仏典の番人役として渡来した。

農耕が開始され集落が出現した時期、中近東周辺で、山野でネズミやノウサギを追っていたネコがネズミが数多く集まる穀物の貯蔵場所に現れ、中には棲みつくものもいたのが始まりと考えられている(リビアヤマネコの生息地と農耕文化圏が重なった地域で、複数回起こっていたと考えられる。時期は特定されていない。「#猫と人間の歴史」節も参照)。 穀物には手を出さず、それを食害する害獣のみを捕食する事から、双方の利益が一致。穀物を守るネコは益獣として大切にされるようになり、やがて餌付けから家畜化に繋がった。

初めて人に飼われたネコから現在のイエネコに直接血統が連続しているかは不明確。最古の飼育の例は、キプロス島の約9500年前の遺跡から見出される。 また、今日のイエネコの直接的・系統的起源は詳らかではないが、紀元前3000年ごろの古代エジプトで固定化されたものと言われている。

2009年05月30日

紀元前5世紀中頃に大陸から北部九州へと

水稲耕作技術を中心とした生活体系が伝わり、九州、四国、本州に広がった。 初期の水田は、福岡市博多区にある板付遺跡や、佐賀県唐津市の菜畑遺跡、福岡県曲り田遺跡、福岡県野多目遺跡などで水田遺跡や大陸系磨製石器、炭化米等の存在が北部九州地域に集中して発見されている。 弥生時代のはじまりである。

近年になって水稲である温帯ジャポニカは縄文晩期には導入されていたことが判明しつつあり、さらに近年の放射性炭素年代測定により弥生時代の始まりが少なくとも紀元前10世紀まで遡る可能性が出てきている。

また、稲の伝来ルートについても従来は朝鮮ルートが有力視されていたが、遼東半島や朝鮮北部での水耕田跡が近代まで見つからないこと、朝鮮半島での確認された炭化米が紀元前2000年が最古であり畑作米の確認しか取れない点、極東アジアにおける温帯ジャポニカ種(水稲)/熱帯ジャポニカ種(陸稲)の遺伝分析において、朝鮮半島を含む中国東北部から当該遺伝子の存在が確認されないこと[5]などの複数の証左から、水稲は大陸からの直接伝来ルート(対馬暖流ルート・東南アジアから南方伝来ルート等)による伝来である学説が有力視されつつある(従来の説とは逆に水稲は日本から朝鮮半島へ伝わった可能性も考えられている)。

紀元前10世紀後半に北部九州に伝わった水田稲作は、近畿南部に伝播するまでに300?400年、南関東までは実に700?800年ほど経過している[6]。昭和56年(1981)、弥生時代中期の遺跡が青森県南津軽郡田舎館村垂柳遺跡から広範囲に整然とした水田区画が見つかっている[7]。その後、弥生時代前期には東北へと伝播し、青森県弘前市砂沢遺跡では小規模な水田跡が発見され、中期には、中央高地の松本平、千曲川流域までひろがった。中部地方の高地にひろがるまでには200年という期間がかかった。その理由の一つに感光性のモミが日照時間の短い中部高地では育たないということがあげられる。 水稲農耕は、かなりな速さで日本列島を縦断し伝播波及したといえる。

水田を作った人々は、弥生土器を作り、多くの場合竪穴住居に住み、倉庫として掘立柱建物や貯蔵穴を作った。集落は、居住する場所と墓とがはっきりと区別するように作られ、居住域の周囲にはしばしば環濠が掘削された。 道具は、工具や耕起具、調理具などに石器を多く使ったが、次第に石器にかえて徐々に鉄器を使うようになった。青銅器は当初武器として、その後は祭祀具として用いられた。また、農具や食膳具などとして木器もしばしば用いられた。

弥生時代には農業、特に水稲農耕の採用によって穀物の備蓄が可能になったことから、余剰作物の生産と蓄積がすすみ、これが富に転化することにより、持てるものと持たざるもの、ひいては貧富の差や上下関係が生まれた。 また、水稲耕作技術の導入により、開墾や用水の管理などに大規模な労働力が必要とされるようになり、集団の大型化が進行した。大型化した集団同士の間には、富や耕作地、水利権などをめぐって戦いが発生したとされる。 このような争いを通じた集団の統合・上下関係の進展の結果、やがて各地に小さなクニが生まれ、1世紀中頃に「漢委奴國王の金印」が後漢から、3世紀中葉には邪馬台国の女王(卑弥呼)が魏に朝貢し、倭の王であることを意味する金印を授けられた。 なお、この頃以降の日本は、大陸からは倭と呼ばれた。
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一方、南西諸島と樺太・北海道には水田が作られず、南西諸島では貝塚時代、ついでグスク時代、樺太・北海道では続縄文時代、ついで擦文時代(さつもん)が続いた(また、本州東北地方では、青森県垂柳遺跡のように弥生時代前期の水田の事例もあるものの、一般的には中期後半前後まで水稲農耕は完全に受容されたとはいえず、北海道に準じ続縄文文化が展開したとの見方もある)。 併合の記載があるまで、以後の記述は、九州・四国・本州を指す。南西諸島の歴史については、沖縄県の歴史他奄美諸島の歴史、先島諸島の歴史も参照のこと。

弥生時代後期・終末期の2、3世紀ごろは、やや冷涼な気候であった。 また、3世紀は海退期であり、海が退いていき沼や湖が干上がり、その底に溜まっていた粘土の上に河が運んできた砂が溜まっていく時期であった。

2009年04月27日

旧ソ連のASAT

旧ソ連のASAT計画の起源は明らかではない。複数の説がある。セルゲイ・コロリョフがOKB-1で1956年に始めたという説やウラジミール・チェロメイのOKB-52が1959年頃研究したという説がある。1960年4月にニキータ・フルシチョフがクリミアの夏の別荘での防衛産業との会合で始まったという説が有力である。チェロメイはロケットと宇宙船の開発に関わり、UR-200の開発を引き受ける。 1961年3月Istrebitel Sputnikov (IS)の生産を決断させる。ISシステムは準軌道周回型で目標に接近して自爆して破壊する。ミサイルは射場の上空を衛星が通過する時間に合わせて発射する。衛星を検知するとミサイルは軌道に投入される。90から200分(1周か2週)ミサイルは目標を搭載されたレーダーで誘導される。迎撃ミサイルの重量は1400kgで目標から1kmまで効果があるとされた。UR-200ミサイルの計画は遅れた。後にキャンセルされた。

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旧ソ連では1968年には最初の衛星破壊実験が行われ、1971年には対衛星兵器を実戦配備していたといわれる。その後、R-36 (SS-9 Scarp) から発展したSL-11と呼ばれる衛星打ち上げロケットが、チュラタム(現カザフスタン)に配備され、1990年まで運用されていたらしい。またMiG-31を母機とした空中発射式の対衛星ミサイルの開発も行われていたが、こちらは実験を行う前に開発は中断された。

この他にも旧ソ連の核開発施設のあるセミパラチンスクでは核爆発で発生したエネルギーを利用した粒子ビーム設備や大規模レーザー兵器を保有しているのが知られている[2]。その他にサミー・シャガンではヨウ素パルスレーザー装置があり、電子ビームを使用した炭酸ガスダイナミック型レーザーもモスクワ近郊の施設で実験されていた。すでに1960年代の時点でソ連はタングステンまたはモリブデンなどの高密度金属電磁流を空気中では25km/s、真空中で60km/sの速度で発射できる電気銃の試作にも成功している。これらの中でレーザー装置に関してはテストを兼ねて何度かアメリカの偵察衛星に対して使用され、一時的にカメラを盲目にすると言った成果も上げている。なおこれらの高エネルギー兵器はソ連崩壊後はそのほとんどが開発休止状態となっている。

1970年代から地上配備型の対衛星攻撃レーザーの実験を行っていた。70年代から80年代にかけてアメリカの偵察衛星が一時的に機能を失ったと報告されている。1976年からFon計画と呼ばれる直接高エネルギーレーザーで損害を与えるレーザーの研究を行っていたが高出力レーザーの開発は難航した。旧ソ連ではアルマース計画で軍用の宇宙ステーションに衛星攻撃能力を与える事も研究していた。

2009年04月11日

シモーニデース

ケオスのシモーニデース(シモニデス)(Simonides of Ceos,紀元前556年頃 - 紀元前468年)は、古代ギリシアの抒情詩人。ケオス島(現ケア島)のIoulisの生まれ。ヘレニズム期アレクサンドリアの学者たちは、シモーニデースをサッポー、ピンダロスらと一緒に9歌唱詩人の1人に数えた。甥のバッキュリデースも詩人である。

若い頃のシモーニデースは詩と音楽を教え、アポローンの祭のためのパイアンを作っていた。しかし、故郷では自分の才能を活かせないと気付き、文学のパトロンだったヒッパルコス(en:Hipparchus (son of Pisistratus)、ペイシストラトスの子)の宮廷のあるアテナイに移り住んだ。紀元前514年にヒッパルコスが暗殺されると、シモーニデースはテッサリアに身を退き、その土地の名士であったスコパス(スコパース)家ならびにアレウアス家(en:Aleuadae)の保護と援助を受け、悠々と暮らした。

キケロはその著書『弁論家について』(ii. 86)の中で、シモーニデースとスコパス家との関係の終わりについて、こんなことを書いている。シモーニデースのパトロンだったスコパスが戦車競走で勝利した。その祝宴で、シモーニデースは勝利を祝うオード(頌歌)を歌ったのだが、カストルとポリュデウケスの讃美に多くを割かれていたので、スコパスは立腹した。報酬を支払う段になって、スコパスは一部しか払わず、残りは双子の神(カストルとポリュデウケス)に請求しろと言った。そのすぐ後、二人の若い男がシモーニデースに会いに来たと聞かされて、シモーニデースが宴会の部屋を出たら、天井が崩落して、スコパスと客たちを押しつぶした[1]。瓦礫を掘り返している間、シモーニデースは死んだ客たちの身元を調べるよう頼まれた。シモーニデースは、部屋を出る前に人々がテーブルのどこにいたか、その座(loci)の記憶から、身元を特定することができた。カストルとポリュデウケスが残金の代わりに自分の命を救ってくれたのだとシモーニデースは感謝して、後に、この経験を「記憶劇場」(memory theatre)または「記憶宮殿」(memory palace)に展開させた(「座の方法」(en:Method of loci)参照)。この情報処理の方法は、ルネサンス期まで広く社会に口伝された[2]。シモーニデースはこうした古代の記憶術の方法を発明したと信じられている[3]。

マラトンの戦い(紀元前490年)の後、シモーニデースはアテナイに戻ったが、すぐにシケリアに行った。シラクサ王ヒエロン1世(en:Hiero I of Syracuse)に招かれたからで、シモーニデースは残りの人生をその宮廷で過ごすことになる。

学者としてのシモーニデースの評判は、次のような伝説からもわかる。母音 の長短の区別を導入したのはシモーニデースで、以後それは、イオニアのアルファベットに取り入れられ、エウクレイデスがアテナイのアルコンだった時代(紀元前403年)に一般的に使われるようになった、というのである。

シモーニデースの人気はそれだけにとどまらず、政治の世界においても影響力を持っていた。たとえば、両軍が激突する前夜、ヒエロン王とTheroを仲裁させたのはシモーニデースだったと言われている。シモーニデースはアテナイのテミストクレス、スパルタのパウサニアス両将軍とは個人的な友人で、ペルシア戦争について歌ったシモーニデースの詩がナショナリズム的愛国心に強い衝撃を与えたのは疑いない。

詩に関しては、シモーニデースはどんな値段でも自分の詩を売った。後世の(といってもアリストパネスより前の時代だが)著作家たちは、シオニデスは強欲だったと主張しているが、おそらく根拠は何もないものと思われる。ヒエロン王の妃がシモーニデースに金持ちに生まれるのと天才に生まれるのとどちらが良いか尋ねたところ、シモーニデースはこう答えた。「金持ちです。なぜなら、天才は金持ちになれる入口がどこか、常に知っておりますから」[4]。別の人が尋ねた。感謝なら山ほどするが、金を一銭もくれない相手のために讃美の詩を書くことができるか、と。シモーニデースは答えた。自分は2つの箱を持っています。1つには感謝を、もう1つには金を入れるための箱を、と。そして箱を開けてみると、前者はからっぽで、後者には金がぎっしり詰まっていた。

詩 [編集]
シモーニデースの詩で現存しているのは、2、3の短いエレゲイア(ただしFr. 85はその作風と詩形からアモルゴスのセモニデス(en:Semonides)のものと思われる。少なくともシモーニデースのものではない)、いくつかのエピグラム(警句)、それに約90の抒情詩および合唱詩(choral poetry)の断片である。エレゲイアに一般的に用いられる方言、つまり叙事詩的な色合いを伴うイオニア方言(en:Ionic Greek)で書かれたエピグラムは、一部は公的に、一部は私的功績のために作られた。

公的な目的のエピグラムの中には、完全に近い均整のとれた単純さを伴う、力強さと崇高さがあり、哀調的表現のリズムと様式に、完璧に熟達している。最も有名なエピグラムは、マラトンの戦いとテルモピュライの戦いの英雄たちのために作られた以下のものである。

字義通りに英訳するとこうなる。「Stranger, tell the Spartans that we lie here, obedient to their utterances/orders/laws(旅人よ、スパルタ人に告げよ。我等はここに横たわり、汝らの言葉/命令/法に従うと)」。の最も多い使われ方は「according to the verbiage(冗言に従う)」)。なお、この詩の他の英訳については以下を参照のこと( en:Battle of Thermopylae#Epitaph of Simonides)。

トマス・ブルフィンチは、シモーニデースはエレゲイアのジャンルで「とくに優れていた」と書いている。「彼の天才は哀れなものに向けられていて、彼以上に、真に迫って、人々の同情を誘う者はいなかった」[5]。

一方、私的目的のエピグラムは、『ギリシア詩華集』(en:Greek Anthology)に載っているもの以上に良い出典はないのだが、より暖かい色合いと印象がある。この種類のエピグラムで、面白くかつ間違いなく本物だといえるのは、アテナイの僭主ヒッピアスの娘Archediceのために書かれたもので、彼女についてシモーニデースは「父・夫・兄弟・子ら、すべて王子だったにもかかわらず、傲りの心がもたげることはなかった」というようなことを書いた。

抒情詩の断片は、内容の性格も長さもまちまちである。アルテミシオンの海戦を歌った詩には、アイスキュロスを勝利の仲間に引き入れて、テルモピュレで戦死した人々を讃えたものもあれば、彫刻家のスコパスの栄誉を讃えた合唱詩(次の「倫理」の項目の最初に出てくる詩である)もある。他には、試合の勝利者へのオード、ヒュポルケーマタ(hyporchemes、舞曲)、ダージュ(en:dirge、葬送歌)、神々やその他のものへの讃歌(hymn)などがある。

倫理 [編集]
シモーニデースは威厳ある不動の公正さの規範を必要としなかった。「それは難しいことだ」とシモーニデースは述べ(Fr. 5)、さらに次のような内容が続く。「真に良き人間になることは、世の非難を受けぬよう、手も足も魂も完全に公正でなければならない。邪悪とは言わずとも、まったく悪くない人間がいようか。正義を、都市国家への恩人を知っていれば、それは健全な人間である。少なくとも私はその人物のあらを探すまい。なぜなら愚か者たちの仲間は数え切れぬから。(中略)私は自ら進んで罪を犯さぬ者たちすべてを讃え、愛そう。しかし、その宿命とは神々さえも争えまい」[6]。

シモーニデースは他のところで、ヘシオドスを思わせる言葉遣いで次のような内容を言っている。徳は高く険しい丘の上にある、と(Fr. 58)。さあ、喜びを探し求めよう。なぜなら、「あらゆるものは、1匹の恐るべきカリュブディスの手に入る。大いなる徳も富も」(Fr. 38)。

とはいえ、シモーニデースは快楽主義者とは程遠い。シモーニデースの道徳は、彼の芸術に劣らず、ケオスを有名にした徳、すなわち「自己制御」に満ちている。シモーニデースの最も名高い断片であるダージュの中で、まだ赤ん坊のペルセウスとともに、暗い霧の夜、海を漂流していた母親ダナエーが、息子の安らかなうたた寝で自らを慰める。シモーニデースはそこに彼自身の言葉を挟んでいる。「詩は言葉の絵、絵は無言の詩」。この決まり文句は(プルタルコスの「De Gloria Atheniesium」を経て)ホラティウスの有名な言葉「詩は絵のように」[7]となった。

タンカー ドル箱 フィクサー チョンチ 微熱 フッター バーム トレー オペラ ロジス トーナメ ヤーコン ファーマ ジェノサ オフコン プロパ ビジタ お祭り ゴング ギタリスト ゲスト ハンド 北風のキ ピラニア リボン パイル ハイブリ チュウ ハット ワイツ ムラサ 雨のタン ストーン スターチ テーブ シンシア セピア バーナー しもにた イソウ サーチスギ パラメ シルフィ リッツ そうま タイム オスロニク キーポイ シャイニ ばるべーら

2009年03月27日

無敵鉄姫スピンちゃん

『赤マルジャンプ』2003SPRING号に読切として掲載された「スピンちゃん試作型」を皮切りに、「超便利マシーンスピンちゃん」(読切・週刊少年ジャンプ・2003年40号)、「超便利ロボスピンちゃん」(読切・週刊少年ジャンプ・2003年48号)とパイロット版3作の後に、2004年に現在の形で連載を開始する。テーマは『ダメ人間賛歌』(単行本より)。作者曰く「本格的なかわいい女の子メインの作品」。単行本はジャンプ・コミックスより全1巻が発売。読切作品は短編集『大亜門短編集クレイジー大亜門道』に収録されている。
ストレッ ハダール ハルジ ハーネス みずあ カトレヤ まぐわ 夏の月 ガイド 紫色カリフ ティング インディオ ショーアップ プルデン ソイビーン ソリスト レール アモチ コピー 繊細 スケジュー ダンボ 手まりか テルル 白いブランコ メデリン スターチス なめねこ ロット ピクノジェ ミラー 幸せの色 オドメー パンパス パイプ 5匹の子 はなびし ムーム レプチン スペンス チャリヤ ウルトラ ライン ハンドボ ツインベッド わにがわ スロット ドルユーザ トリオット チーズ

元々は連載以前に描いた未発表作品「怪傑h」(かいけつエイチ)が原型[要出典]。一緒の交通事故の言い逃れで自分が改造手術でサイボーグに生まれ変わったと思い込んだ青年・江一と、交通事故を起こした一緒とその孫娘の亨(透瑠の原型になった小学生)が織成すヒーロー物ギャグで、一緒の設定は好評だったものの、主人公のキャラクターが弱いと言われ、考えた末にかわいい少女を主体として生まれた作品。

ギャグ漫画のラインアップが少ない当時の週刊少年ジャンプでは久々のギャグ連載であり、漫画やアニメ、ゲームなどを元にした数々のパロディネタを武器にしたギャグを展開し、掲載順も安定したかに見えたが、2004年5月の27号にて連載終了(1クール打ち切り)となる。

その後、2005年から週刊少年ジャンプに連載された『太臓もて王サーガ』(スピンちゃんと時系列が同じ)に主要人物(スピン(ときには「まわる」と名称変更する事も)、透瑠、一緒、モタ)がレギュラー出演し、コアなファンを喜ばせた。

主な登場人物 [編集]
スピン
博士を想う素直な幼児体型の自律思考型ロボット。目からビームを発したり体内に(いもうと)ミサイルを装備する。透瑠曰く、「コンバトラー並みに武器が多い」。オプションパーツとして消火機能やビデオカメラ(一緒の盗撮目的)を備える事も。元々は一緒が自分の野望をつっぱねた上クビにしたペガサスモーターに対する復讐(逆恨み)の為の戦闘ロボットだった。最終回で一緒の家の火事を消火する為爆発を起こし、頭部だけしか残らなかった(一応、ペロたんを代わりのボディにしている描写が見られる)。踵から伸びる電気コードにより、外出先でも充電が可能。
カバーをはがした状態の単行本裏表紙では成体状態のスピンが登場(一緒の夢の中)している。
読切版『超便利ロボ』では「余り部品やクズ鉄から作られた」と、7ちゃんやガンガラガンちゃんを思わせるような生い立ちが彼女自らの口より語られている。
名前の由来は『超電磁ロボ コン・バトラーV』の必殺技・超電磁スピンから。
部井透瑠(ぶい とおる)
ビューナス女学院高等部に入学した一緒の孫娘。過保護すぎる父から逃れるように(カバーをはがした状態の単行本表紙にその様子が描かれている)レンタルロボットVに居候になった。一緒の度を越したスケベ具合や、それに従うスピンに呆れながらも、スピンに対して暖かく見守っている少女。ツッコミ担当。一緒の優性遺伝のせいか特徴的な癖毛で、その為髪をゴムで止めている。声が低く「洗濯板」と形容されるくらい貧乳(顔の造作も髪の色も母親似なのにここだけ全く似ていない)。最初(原型となった読切『怪傑h』の設定)は小学生の設定で名前も「亨」となっていたが、スピンちゃん掲載の際に今の設定に改められた。祖父・両親の他に伯父がいるとの事。
名前の由来はVTOLから。また、下の名前は『Oh!透明人間』(中西やすひろ)の主人公(♂)と同名。
部井一緒(ぶい かずお)
男の夢であるどんなエッチな要求にも応えてくれる美少女ロボット「エロボット」の開発製作に情熱を燃やす博士。スピンを創り出した人物。ロボット工学に関してだけは天才的だが、ドスケベで自己中心的で非常識で生活能力皆無の駄目人間。かつてはペガサスモーターに勤務していたが、会社でエロボットを開発しようとしたのに加え、社内での度重なるセクハラ行為により、クビになった。エロボット製作のために多大な借金をしてしまい、デビルローンというヤミ金にまで手を出してしまった。透瑠の祖父で透瑠は再会当初は「おじいちゃん」と呼んでいたが、一緒の本性を知りすぐさま承太郎よろしく「じじい」に変わった。上述の性格から、妻(つまり透瑠の祖母)にも逃げられている。
名前の由来は『超電磁マシーン ボルテスV』のボルトイン(合体)時の掛け声「Vトゥゲザー」から(together→一緒)。透瑠と同じく読切『怪傑h』からのコンバートキャラ。
ペロットちゃん/ペロたん
スピンのウサギのバックパックを一緒が改造したウサギ型ロボット。かわいらしい外見とは裏腹に両刀使いかつ腹黒でしかもエネルギー吸収装置を装備し、他のペットロボットのエネルギーを吸収する性質の悪いペットロボット。耳を翼にしてジェット機のように空を飛ぶ事が可能。
名前の由来は『超電磁ロボ コン・バトラーV』の脳波計測ロボット・「ロペット」と江崎グリコのチョコ菓子「ペロタン」。
入田恩(はいるだ めぐみ)
一緒の友人で引きこもりのダメ人間。普通の女性と話をしたい為女性ロボットのレンタルのために一緒の店に来た。中学生時代に負ったトラウマにより、女性に冷たい目で見られると暴れ出し、両乳首を押されないと平常心を取り戻せないと言う困った癖の持ち主。「ばくぅ」ちゃんという犬を飼っておりその時だと普通に女性と話せる。単行本裏表紙(カバーをはずした状態)では一緒の家にて一緒に昼寝している。
モデルはゲッターポセイドンで、名前の由来はアニメ「マジンガーZ」の合体の掛け声「パイルダーオン」から。
愛犬「ばくぅ」の名前の由来は『機動戦士ガンダムSEED』シリーズに登場する四足獣型MS「バクゥ」。
部井佐蔭(ぶい さいん)
部井一緒博士の息子で透瑠の父。一応は常識人ではあるが、娘に対してはかなり過保護で心配性(これに対しては流石に一緒も頭を悩ませている)。またかなりのマゾヒストでもある。名前の由来はVサインから。
透瑠の母
本名は不明。こちらも一応常識人ではあるのだが、極度のサディストでいつもムチを持ち歩いているらしい。最終回での佐蔭とのSMプレイが次回作での透瑠の人格形成の引き金となる。
笛井戸雷電(ふえいど らいでん)
ビューナス女学院の学院長。普段は「ランちゃん」と呼んで欲しいと頼んでいる。体格は非常に良いのだがかなり乙女チックなところがある。男の愛人(武竜牙)がいた。名前の元ネタは「勇者ライディーン」の掛け声「フェードイン」とライディーンから。
デビルローンの借金取り
闇金融『デビルローン』から派遣されてきた取り立て屋。最初、二枚目風の男として登場したが、一緒の姿を見るなり左の頬に傷のある丸刈りの強面ヤクザの正体を現した。極度の妹萌えでスピンに惚れてしまい、借金のカタにしようとしていた。読切版にも登場(顔の疵が左目部分についている)。
名もなきダメ男
商店街のビルから飛び降りを図った自殺志願者。一流大学に合格したのに誰も合格祝いをくれなかったため(クラスメイトは三流大学なのにクルマを買ってもらった)に自殺を図ったという。説得に現れたスピンの素朴な疑問に追い詰められ、死のダイブを敢行。直後のスピンの救助活動により一応救出された。
白鳥父娘(しらとりおやこ)
一緒の店に家庭用警備ロボットをレンタルしに来た父と、それを扱う娘。しかし娘のほうはとても警備ロボットを必要としていないような体格をしており、父のほうは正拳突きをしたたけで骨折してしまう程に貧弱な体である。実家に空き巣が入ってしまいレンタルどころではなくなってしまう。
恵野大五郎(めぐみの だいごろう)
キャンベル消防局・レスキューロボット審査の案内人。喋り方がムカつくほど淡々としている。
名前の由来は曽田正人の漫画「め組の大吾」から。
刈場翼(かりば つばさ)
大手ロボットメーカー「ペガサスモーター」兼直営レンタル・リース直営店「スターアロー」社員。嫌味ったらしい自信家で根に持つ性質。専務の父がいてその父と一緒とはロボット製造の工程で因縁があった。キャラクター名の由来は「聖戦士ダンバイン」のウイングキャリバーで、キャラクターのモデルはビルバインで父がダンバイン。会社の名前の由来は「聖闘士星矢」の「ペガサス星矢」と、「鉄腕アトム」のアトムの造り主・天馬博士から。
銀鈴(しろがね りん)
ビューナス女学院教諭。学校で元気のない透瑠の家庭での様子を見る為に一緒の家に家庭訪問に来た。かなり天然である。名前の元ネタは「OVA版ジャイアントロボ」の銀鈴(ルーツを辿れば『その名は101』の王銀鈴と『狼の星座』の銀鈴。)。
武竜牙(たけ りゅうが)
大手ロボット製造会社「武コーポレーション」社長の息子。雷電(ランちゃん)の元彼だった男。
名前の由来は「勇者ライディーン」の重戦闘機・ブルーガーと、「DEATH NOTE」のLの偽名の一つ「流河旱樹(りゅうが ひでき)」から。

2009年03月11日

エチミアジンの大聖堂

エチミアジンの大聖堂と教会群ならびにズヴァルトノツの考古遺跡(エチミアジンのだいせいどうときょうかいぐんならびにズヴァルトノツのこうこいせき)は、アルメニア共和国にあるユネスコの世界遺産登録物件名。登録は2000年。古いキリスト教の教会堂を対象とする。

アルメニアは世界でも最も古い文化を持つ国のひとつで、301年には、歴史上初めてキリスト教を国教と定めている。東ローマ帝国とサーサーン朝に挟まれたアルメニア王国は、5世紀になると両国に分割されて滅ぶが、6世紀末には東ローマ帝国のあらゆる場所にアルメニア人のコミュニティが形成され、特に軍の要職はアルメニア人が占めるほどになった。アルメニア人は東ローマ帝国内に社会的優位性を築き、ビザンティン建築においても、その発展に寄与することになる。
セロジネ ソラサ よどがわ リンネル マント チクング コスパ バックル マグニチ シンメト パトロール ナイト こだわ ブラック きえい イコライザ チューバ ミディサ ミオシン アケビ レッド 満龍 銀龍日本 ナイト シグマ ケマンソウ トハート スライダー セレシン おとずれ セーフ クサギ ナイト もろきゅ ローブ ナント テレマー デュー トロート ルシフ すげがさ ネオダマ 缶けり ドラム 山もみじ ドロップ プレス ニコラ トップ ハウンド

アルメニア最古の教会建築物は5世紀から6世紀に遡り、その形式はシリアの影響を強く受けたものであった。5世紀のアルメニアの歴史家アガタンゲロスによると、聖堂の建設は、最初の大主教啓蒙者グレゴリオスが、キリストが天から下りて、金色の槌で大地に触れるビジョンを見たことに始まる。彼はその場所、ヴァガルシャパト(現エチミアジン)に大聖堂を建設した。

現在の聖堂群は、610年から670年頃にアルメニア建築が高度に洗練された頃に建設されたものを中核とする。この時期、アルメニア高地は、暗黒時代に突入した東ローマ帝国本土に代わり、ビザンティン建築を牽引するたはらきを担った。ただし、厳密に言うと、アルメニア建築はビザンティン建築に包含されるものではなく、常にアルメニアの独自性を保ち続けたと言って良い。大聖堂以外に、スルブ・ガヤネ聖堂、スルブ・フリプシメ聖堂、スルブ・アストゥアツァンティン(聖母)聖堂などが登録されている。

主な建築物
世界遺産には、3つの領域が指名されている。

エチミアツィンのスルブ・アストゥアツァンティン大聖堂とスルブ・ガヤネ聖堂
スルブ・フリプシメ聖堂
王宮跡を含むズヴァルトノツの考古遺跡

2009年02月23日

ハンティ語

ハンティ語(Khanty, Xanty language)、旧称オスチャーク語(Ostyak language)は、シベリア北西部の少数民族、ハンティ人(オスチャーク人)の固有言語。ロシアのハンティ・マンシ自治管区、ヤマロ・ネネツ自治管区、トムスク州などで話されている。1994年に行われた調査では、話者はロシア国内に12,000人。ハンティ語は、ウラル語族のフィン・ウゴル語派に属し、近隣のマンシ語と共にフィン・ウゴル語派の下位区分オビ・ウゴル諸語を成す。
おっくうこ リモデル ユズ ミドル マナ マスク スギラ フラフー フライング バスター コブラ フランジ モンキ 水平線 ジンジャー テーゼ なんぶ セリンリン アランス トブツ マイスタ オレゴンオイ ビヌーボー シルバ トレサパ プロセニ フィンエァ デフォルト ブギウギ ソマリア かぶき バイタル ガーネット ミラーボ ケンタウ バラライカ セクサ マダガス バチスト サポナリア ハンドル ストック スファレ イ長調 ミナレ ならく たびだち イージス スリリース ピクルス

ハンティ語には多数の方言が存在することが知られている。西部の方言群として、サレハルド、オビ川、エルティシ川の各地域の方言がある。東部の方言群には、スルグト方言、オビ川の支流であるヴァフ川(Vakh)・ヴァシュガン川(Vasyugan)方言があり、これら東部方言はさらに13の下部方言に分類される。これに北部の方言群を加え、3つの主要な方言群に分類されているが、3つの方言群の間には音韻、単語の構成法、語彙に大きな差異が見られ、お互いに理解することが不可能である。

ハンティ語のキリル文字

А а ? ? Б б В в Г г Д д Е е Ё ё
? ? ? ? Ж ж З з И и Й й К к ? ?
Л л Л’ л’ М м Н н ? ? О о ? ? ? ?
? ? П п Р р С с Т т У у ? ? Ф ф
Х х Ц ц Ч ч Ч’ ч’ Ш ш Щ щ Ъ ъ Ы ы
Ь ь Э э Ю ю Я я

ハンティ語のラテン文字(1931年?1937年の間のみ使用された)

A a B в D d E e ? ? F f H h ? ?
I i J j K k L l Ļ ļ Ł ł M m N n
Ņ ņ Ŋ ŋ O o P p R r S s Ş ş S? s?
T t U u V v Z z ? ? ? ?

表記法の歴史
ハンティ語が書記言語となったのは、ロシア革命後で、1930年にまずラテン文字を基にした表記法が発明され、1937年にはキリル文字に ([/ŋ/])の文字を加えた表記法が編み出された。ハンティ語による文学作品の表記には専ら、カジム方言、シュリシュカル方言、中部オビ方言のいずれかが使用される。新聞や、テレビ、ラジオでは通常カジム方言が使用されている。

方言
ヴァフ川方言
ヴァフ川流域の方言は、他の方言との差異が大きく、厳格な母音調和と、分裂能格的な格変化(tripartite case system)を有し、他動詞の主語と目的語、自動詞の主語が全て異なる指標で表されるのが特徴である。他動詞の主語は接尾辞 -n?- により表され、他動詞の目的語は対格の接尾辞で表される。自動詞の主語は特に指標が付かず、能格言語のように絶対格と呼ばれることもある。他動詞は、主語に一致して人称変化する。

オビ川方言
オビ川方言の音韻には、子音 [p t t? k, s ? ? x, m n ? ŋ, l ? j w]、短母音 [i a o u]、長母音 [e? a? o? u?]、そして弱母音 [?] がある。弱母音は語頭に現れない。上のヴァフ川方言と違い、母音調和がない。

文法
名詞
名詞に付く接尾辞には、双数形 [-ŋ?n]、複数形 [-(?)t]、与格 [-a]、処格/具格 [-n?] がある。

例:
xot 「家」(ハンガリー語 ház、フィンランド語 koto に相当)
xotŋ?na 「2つの家へ」
xot?tn? 「(複数の)家で」(フィンランド語の表現 kotona 「家で」との類似に注意。フィンランド語の様格接尾辞 ?na を使用した表現)。
名詞の単数形、双数形、複数形にはさらに、単数形、双数形、複数形それぞれの所有接尾辞が付く。所有接尾辞には3つの人称の別があるため、全てで 33 = 27通りの変化形が存在することになる。下は m?s 「牝牛」の変化形の一部の例である。
m?sem 「私の牝牛」(単数)
m?sem?n 「私の(2頭の)牝牛」(双数)
m?sew 「私の牝牛達」(複数)
m?sŋ?tuw 「私達の(2頭)の牝牛」(双数)

人称代名詞
人称代名詞の主格。

単数 双数 複数
1人称 ma min muŋ
2人称 naŋ n?n naŋ
3人称 tuw t?n t?w

1人称代名詞 ma の格変化は、対格 man?t 、与格 man?m。

指示代名詞・指示形容詞。
tam? 「これ、この」、tom? 「あれ、あの」、sit 「あそこの」
:tam xot 「この家」

基本的な疑問詞。

xoy 「誰」、muy 「何」

数詞
ハンティ語の数詞とハンガリー語の数詞の比較。

# ハンティ語 ハンガリー語
1 yit, yiy egy
2 katn, kat kettő, két
3 xut?m három
4 nyat? négy
5 wet öt
6 xut hat
7 tap?t hét
8 n?v?t nyolc
9 yaryaŋ (10に足りないが語源か) kilenc
10 yaŋ tíz
20 xus húsz
30 xut?myaŋ (10が3つ) harminc
100 sot száz

「10」と10との組合せから成るもの以外では、2つの言語の数詞は非常に似ている。また、両言語の単語間の規則的な音韻対応にも注意。
例(ハンティ語?ハンガリー語の順)

:[[xot]-[ha?z]]
「100(数詞)」:[[sot]-[sa?z]]
統語論
ハンティ語はマンシ語と同じく、基本的には主格対格型言語であるが、 能格言語的な特徴を有している。他動詞の目的語を表す格と、自動詞の主語を表す格が同じ指標で表され、他動詞の主語は処格(具格)が使用されるのである。このような名詞変化は、「与える」などのいくつかの特定の動詞のある文で現れる。例えば「私はあなたに魚を与える」という文は、ハンティ語では「私によって(他動詞の主語/具格)・魚を(目的語/対格)・与える(他動詞)・あなたに(間接目的語/与格)」という構造になる。しかし、このような能格言語的な特徴は、常に形態素(格変化を表す指標)により表され、統語論的なものではない。加えて、このような文は受動態でも表すことができる。例えば、マンシ語で「犬が(他動詞の主語/具格)・あなたを(目的語)・噛んだ(他動詞)」という文は、「あなたは(目的語/対格)・噛まれた(受動態)・犬によって(他動詞の行為者/具格)」とすることもできるのである(どちらの文でも名詞の格は同じ)。

2009年02月07日

足利義教

足利 義教(あしかが よしのり、応永元年6月14日(1394年7月12日) - 嘉吉元年6月24日(1441年7月12日)は、室町幕府第6代将軍(将軍職1428-1441年)。3代将軍足利義満の3男。母は安芸法眼の娘藤原慶子(ふじわらのよしこ)で4代将軍義持の同母弟。当初出家しており「義円」と呼ばれていたが、家督を継ぐにあたり還俗し「義宣(よしのぶ)」と称したものの、「世を偲ぶ」につながることから改名を決意し朝廷から贈られた「義敏」という名を蹴って「義教」と名乗った。官位は従一位左大臣、贈太政大臣。
ブリザード キング スイート アクター タッパー フリーズ 国道日 コピー ノルウェー ケーワイ スラック コスト ナース デビル スレンダ スパナ てらつつき ジェイ メラノーマ オーイー フォトグ クラッチ テリト キンシバイ ムラサキ オブジェク フィニ スベリン ビーズ ピュア カナッペ プレーグ すりはく ベスビア レーム ひっす フライ スタート ション パルメ メション ヘルプ ハイブ ロスカット イカーゴ フロー マグノリ 小夜時雨 サモエード ナビテラ

足利幕府将軍の家督相続者以外の子として、慣例により仏門に入って「義円」と名乗り青蓮院門跡となった。その後百五十三代天台座主となり、『天台開闢以来の逸材』と呼ばれ将来を嘱望されていた。

応永32年(1425年)、兄の4代将軍足利義持の子である5代将軍足利義量が急逝し、義持も正長元年(1428年)に重病に陥った。義持が後継者の指名を拒否したため、群臣達の評議のが行われた。結果、管領畠山満家の発案によって、石清水八幡宮でくじ引きを行い、義持の弟である梶井義承・大覚寺義昭・虎山永隆・義円の中から将軍を決めることになった。

1月17日、満家が石清水八幡宮でくじを引き、翌日の義持死亡後に開封され、義円が後継者に定まった。くじ引きに関しては、神を感じていた中世のことだから公正であったとする説、三宝院満済らが事前に仕組んだ不正であるとする説[1]もある。このことから、6代将軍に就任した義教は、籤引き将軍と呼ばれるようになった。だがすぐには義教は承知せず、就任の際には斯波氏、畠山氏、細川氏から「将軍を抜きに勝手なことをしない」と証文をとった。

幕府の権威復興へ
将軍就任を果たした義教の目標は、失墜した幕府権威の復興と将軍親政の復活であった。施策の手本は父足利義満に求めたと思われ、手始めに1428年の称光天皇死後の皇位継承問題を手がける。後花園天皇の新続古今和歌集は義教の執奏によるものである。三宝院満済を政治顧問に儀礼の形式や訴訟手続きなどを義満時代のものを復活させ、参加者の身分・家柄が固定化された評定衆・引付に代わって、自らが主宰して参加者を指名する御前沙汰を協議機関とすることで管領の権限抑制策を打ち出した。そして義持の代から中断していた勘合貿易を再開させて財政政策を見直すなど、幕府権力の強化につとめた。また社寺勢力への介入を積極的に行った。

軍事力についても、将軍直轄の奉公衆の整備など軍制改革を行って力を得る。そして鎌倉公方足利持氏が、正長から永享に改元したにも拘らず正長の年号を使い続け、また鎌倉五山の住職を勝手に決定するなどの専横を口実とし討伐を試みる。これは反対に遭い断念するが、代わりに大内盛見に九州征伐を命じた。盛見は戦死したが跡を継いだ甥の大内持世が山名氏の手を借りて渋川氏や少弐氏・大友氏を撃破、腹心となった持世を九州探題とし九州を支配下に置いた。

神裁政治
義教は所領の係争問題や神社の人事問題などが起こった際には審理をせず、「湯起請」やくじ引きといった神判を行わせた。これは神の権威によって重臣や公家などの衆議を退け、自らの独裁権力を確立するためであったとも、自らが「神意」によって室町殿になったという王権神授意識によるものであったともされる[2]。

これらの裁断は主に境界問題や朝廷関連に限られ、守護人事や軍事面では神判は行わなかった。

延暦寺との抗争
もともと天台座主であった義教は還俗後すぐに弟の義承を天台座主に任じ、天台勢力の取り込みを図った。1433年(永享5年)に延暦寺山徒は幕府の山門奉行飯尾為種や、光聚院猷秀[3]らに不正があったとして十二か条からなる弾劾訴訟を行った。満済や管領細川持之が融和策を唱えたため、義教は為種や猷秀を配流することで事件を収めた。しかし山徒は勝訴の勢いにのり、訴訟に同調しなかった園城寺を焼き討ちする事件が起こる。義教は激怒し、自ら兵を率いて園城寺の僧兵とともに比叡山を包囲した。これをみて比叡山側は降伏し、一旦和睦が成立した。

しかし翌1444年(永享6年)7月、延暦寺が鎌倉公方足利持氏と通謀し、義教を呪詛しているとの噂が流れた。義教はただちに近江の守護である京極持高・六角満綱に命じ、比叡山一帯を包囲して物資の流入を妨げた。さらに11月には軍兵が比叡山の門前町である坂本の民家に火をかけ、住民が山上へ避難する騒ぎとなった。延暦寺側が降伏を申し入れ、管領細川持之ら幕府宿老も赦免要請を行ったが、義教はなかなか承諾しなかった。12月10日、持之ら幕府宿老5名が「比叡山赦免が成されなければ、自邸を焼いて本国に退去する」と強硬な要請を再三行った。12日、義教はようやく折れて和睦が成立し、延暦寺代表の山門使節4人を謁見した後に軍を引いた。

しかし義教は本心では許しておらず、翌1435年(永享7年)2月、先の4人を京に招いた。彼らは義教を疑ってなかなか上洛しなかった。しかし、管領の誓紙が差し出されたために4人が出頭したところ、彼らは捕らえられて首をはねられた。これを聞いた延暦寺の山徒は激昂し、抗議のため根本中堂に火をかけ、24人の山徒が焼身自殺した。

炎は京都からも見え、世情は騒然となった。義教は比叡山について噂する者を斬罪に処す触れを出した。その後、山門使節の後任には親幕派の僧侶が新たに任命され、半年後には根本中堂の再建が開始された。

永享の乱
鎌倉公方の足利持氏は自分が僧籍に入っていないことから、義持没後には将軍に就任できると信じており、義教を恨んでいた。先の年号問題は持氏の妥協で決着が付いたものの、比叡山の呪詛問題、それに1438年(永享10年)には嫡子の元服の際に義教を無視し勝手に名前をつけた(当時は慣例として将軍から一字を拝領していた)ことなどから幕府との関係は一触即発となっていた。そんな時にたびたび持氏を諌めていた関東管領上杉憲実が疎まれたことにより身の危険を感じて領国の上野に逃亡し、持氏の討伐を受けるに至る。義教は好機と見て憲実と結び、関東の諸大名に持氏包囲網を結成させ、持氏討伐の勅令を奉じて朝敵に認定し、1439年(永享11年)に関東討伐に至った(永享の乱)。持氏は大敗して剃髪、恭順の姿勢を示した。しかし義教は憲実の助命嘆願にも拘らず持氏一族を殺害した。その後は関東に自己の勢力を広げていくために実子を新しい鎌倉公方として下向させようとしたが、これは上杉氏の反対にあって頓挫している。

関東平定と中央集権の実現
鎌倉を平定した義教であったが、1440年(永享12年)に逃亡していた持氏の遺児の安王丸・春王丸兄弟が結城氏朝に担がれて叛乱を起こした(結城合戦)。義教は隠居していた憲実に討伐を命ずるも、関東諸将の頑強な反抗に遭い、力攻めから兵糧攻めに切り替え、翌年の1441年(嘉吉元年)4月には鎮圧された。春王・安王は京への護送途中で斬られた。また大和永享の乱で越智氏・箸尾氏といった有力国人ともども後南朝勢力を討伐した。これらの乱の鎮定の際には「治罰綸旨」を受けて相手を「朝敵」にする事を行っており、これが戦国期における朝廷の権威復興の一因となったとする説もある[4]。

また義教は有力守護大名に対して、その家督継承に積極的に干渉することにより、大内持世や赤松貞村などの自身の腹心を当主に推し支配力を強める政策を行った。意に反した守護大名、一色義貫と土岐持頼は刺客を送られ暗殺された。

義教の時代には正長の土一揆や後南朝勢力の反乱など、室町幕府を巡る政治・社会情勢が不穏であり、強力な指導力を持つ将軍の存在が望まれていた武家社会や民衆の要請[要出典]に沿う形で、義教は幕府権力の強化に一定の成果をあげた。

「万人恐怖」
義教は苛烈な側面を有しており、些細なことで激怒し厳しい処断を行った。主な例としては以下のようなことがある。

永享二年、東坊城益長が儀式の最中ににこっと笑顔を作った。義教は「将軍を笑った」と激怒し、益長の所領を没収の上、本人は蟄居させられている。
永享四年、一条兼良邸で闘鶏が行われ、多数の人々が見物に訪れた。そのため義教の行列が通ることが出来ず、激怒した義教は闘鶏を禁止し、京都中のニワトリを洛外へ追放した。
義教は側室・日野重子の兄である日野義資に対して青蓮院門跡時代から恨みを持っており、将軍に就任すると義資の所領を没収し、謹慎させた。永享六年、重子が子(のちの足利義勝)を産むと、叔父になる義資のもとに祝賀の客が訪れた。これを不快に思った義教は訪れた客すべてを処罰した。さらに6月8日には義資が何者かに斬殺され首を取られた。義教の討手であるという噂が流れたが、噂をした参議高倉永藤は硫黄島へ流刑となった。
比叡山根本中堂の炎上に関する噂をすることを固く禁じ、その禁に触れた商人は斬首された。
これにとどまらず「献上された梅の枝が折れた」「料理がまずい」といった些細な理由で庭師や料理人を罰したことが当時の記録に数多く記されている[5]。

永享六年六月、中山定親は日記『薩戒記』において義教に処罰された人間を数えたてているが、公卿59名、神官3名、僧侶11名、女房7名が処罰されたとしている。中には光範門院といった天皇の生母や、皇族、関白なども含まれる。斎木一馬は義教の全統治期間ではこの2倍に上るものが処罰されたとしている。なお、これらの数には武家や庶民は含まれておらず、総数は相当数に上ると見られている。

これらの事跡は義教が恐怖政治を志向した事や、嗜虐性を有していた事を示す逸話として伝えられた。伏見宮貞成親王は『看聞日記』で、商人の斬首についてふれ「万人恐怖、言フ莫レ、言フ莫レ」(『看聞日記』永享七年二月八日条)と書き残した。このため「万人恐怖」を義教時代を象徴する一語と見ることも多い。

最期
永享9年頃から赤松満祐が将軍に討たれるという噂が流れていた。嘉吉元年6月24日(1441年)、「鴨の子が多数出来」したことを名目に義教の「御成」を招請した。当事、将軍が家臣の館に出向き祝宴を行う御成は重要な政治儀式であった。義教は少数の側近を伴って赤松邸に出かけたが、祝宴の最中に暗殺された。主を失った幕府は混乱し、討手を差し向けることもなく、満祐・ 教康父子は播磨に帰国する。

同年7月11日、ようやく討伐軍が編成され、細川持常・山名持豊(宗全)らに追討されて赤松氏は滅亡した。これを嘉吉の乱という。貞成親王は「自業自得ノ果テ、無力ノ事カ。将軍此ノ如キ犬死ニハ古来ソノ例ヲ聞カザル事ナリ」(『看聞日記』)と評した。

この結果、義教によって復興された権力はこの後弱体化していくが、義政の東山文化を支えた将軍の中央集権権力は、義教の代に再び確立されたことも事実である。また義教の設立した奉公衆制度は将軍権力を支え、応仁の乱を経て明応の政変まで将軍権力を維持していくことになる。

墓所
義教の首塚とされる塔 兵庫県加東市安国寺法名は普広院殿善山道恵。墓所は京都市の十念寺。また、義教の首塚とされるものが大阪市の崇禅寺と、兵庫県加東市の安国寺に存在する。また肖像画が妙興寺、木像が等持院に残っている。

官歴
※ 日付=旧暦

1428年(正長元年)3月12日、従五位下に叙し、左馬頭に任官。還俗し義宣と名のる。4月14日、従四位下に昇叙。
1429年(永享元年)3月9日、元服。3月15日、参議に補任し、左近衛中将を兼任、征夷大将軍宣下。義教に改名。3月29日、従三位に昇叙し、権大納言に転任。8月4日、右近衛大将兼任。12月13日、従二位に昇叙。
1430年(永享2年)1月6日、右馬寮御監兼務。10月17日、従一位に昇叙。
1432年(永享4年)7月25日、内大臣に転任。右近衛大将兼任如元。8月28日、左大臣に転任。右近衛大将兼任如元。12月9日、淳和奨学両院別当兼務。
1433年(永享5年)8月9日、右近衛大将辞任。
1438年(永享10年)8月28日、左大臣辞任。
1441年(嘉吉元年)6月24日、薨去。6月29日、贈太政大臣。

系譜
父:足利義満
母:藤原慶子
正室:日野宗子
正室:三条尹子
側室:日野重子
子:足利義勝:7代将軍
子:足利義政:8代将軍
子:足利義視
側室:少弁殿
子:足利政知:堀越公方
側室:東御方(長慶天皇孫、玉川宮女)
永享3年12月に義教の下に上がるも、永享9年11月、密通事件により離縁

義教の偏諱を受けた人物
赤松教康
一色教直
大内教弘
大内教幸
近衛教基
少弐教頼
細川教春
山名教清
山名教豊
山名教之

2009年01月22日

的な奴隷、強制売春、強いられた妊娠状態の継続

国際刑事裁判所は国家の刑事裁判権を補完する。
第7条(人道に対する犯罪)第1項g
人道に対する犯罪として、「強かん、性的な奴隷、強制売春、強いられた妊娠状態の継続、強制断種その他あらゆる形態の性的暴力であってこれらと同等の重大性を有するもの」が規定された。このうち、「性的な奴隷」は、第二次世界大戦中の旧日本軍のいわゆる「従軍慰安婦」が念頭に置かれた規定である[8]。
第27条(公的資格の無関係性)
国際刑事裁判所規程は、その公的資格に関りなく、すべての者に平等に適用される。国家元首や議員、公務員であっても、規程に基づく刑事責任から免除されない。
そのため、伝統的な国際法の下では訴追できなかった現職の国家元首や閣僚であっても訴追の対象となる(このような規定は、ジェノサイド条約第4条や旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷規程第7条にも見られる)。
第36条(裁判官の資格、指名及び選挙)8項a(iii)
裁判官の構成は、男女の割合が公平でなければならない。裁判官のジェンダーバランスが考慮された。これは、国際刑事裁判所が対象とする事態に女性に対する性的暴力が多く含まれるためである。
第43条(書記局)
書記局には、被害者及び証人部門が設置されるが、この部門には、性的暴力によるものを含む精神的外傷に関する専門知識を有する職員を置かなければならない。
第77条(適用される刑罰)1項b
適用しうる刑罰は、30年以下の有期の拘禁刑または終身刑のみで死刑はない。犯罪がきわめて重大であり、有罪とされる人の個人的事情によって正当とされる場合においても、最高刑は終身拘禁刑である。刑を執行する国は刑期終了前に受刑者を釈放してはならず、裁判所だけが減刑する決定権を持つ。
裁判所は有期刑の受刑者は刑期の三分の二、終身刑の受刑者は25年間服役した時に、減刑の可否について再審査する。裁判所は受刑者が減刑の条件に合致する場合は減刑することができる。裁判所は減刑を不許可にした場合も一定の時間ごとに減刑を再審査することができる。

裁判所の構成
主な出典:(英文)ICC-CPI公式サイト (和文)JNICCブログ「国際刑事裁判所(ICC)と日本」
裁判所長会議(The Presidency)詳細
裁判部(The Chambers)詳細
検察局(Office of the Prosecutor)詳細
書記局(The Registry)詳細

裁判所長会議
裁判所長会議(The Presidency)は、国際刑事裁判所全体の適切な運営に関する一切を一任されている。ただし、独立部門である検察局については、両部門が関わる事項についてのみ、検察官の承諾を得た上で管理を統括することができる。

構成
人数:3名
選出:18名の判事全員の過半数の投票により選出される。
任期:3年(再選可能)
勤態:常勤

代表者
2006年3月11日、ローマ規程第38条に基づいて18名の判事に選出された代表とそれぞれの任期は次のとおり。

裁判所長(President)
カナダ、フィリップ・キルシュ(Philippe KIRSCH)、男性、2015年迄
裁判所第一次長(First Vice President)
ガーナ、アクア・クエニェヒア(Akua KUENYEHIA)、女性、2009年迄
裁判所第二次長(Second Vice President)
ボリビア、レネ・ブラットマン(René BLATTMANN)、男性、2009年迄

裁判部
裁判部(The Chambers)は、締約国会議(ASP)によって選出された18名の判事が振り分けられる各部門(Division)から構成され、各判事はこの部門を構成する各裁判部(Chamber)に振り分けられて配置される。

主要部門と任務
予審裁判部門(詳細)
裁判所第一次長と6名の判事の計7名から構成
捜査開始の可否の決定、捜査中止の判断、逮捕状の発行、公開審問の運営
第一審裁判部門(詳細)
裁判所第二次長と5名の判事の計6名から構成
必要な手続きの制定と実践、権利保証手続き、被害者及び証人の安全保護
上訴裁判部門(詳細)
裁判所長と4名の判事の計5名から構成
判断、判決の撤回・改訂、新たな裁判の実行(再審)
トウワ マリンシャ パスネ マイル 琴の波 日本検索 ジュピター ライム ティーカ トラック パワステ カラー ミューズ レイオフ テレホ レイヤ チャイナ ダリー バッケン セル ハイスク チャリス おおみ ウバイド ドレープ ぎおんうお かぼちゃ レコアダー フィール もちは チキン ブーバル つれあい マスカレ りざや ルマガ 伊予緋 すぺあみ スケルト 十二単 ストライプ ヒラタケ 仮面 エゴイス ゼノタイ クロスセル ドアマン パンダ アケミス サラサ

構成と概要
人数: 18名 (2009年1月現在)
選出: 裁判官は締約国会議(ASP)おける選挙によって選ばれる。各締約国が推薦できる候補者は1名である。
任期: 9年(ただし、第1回の選挙で選出された裁判官は、抽選により3年間、6年間、9年間の職務に就く)
裁判官の選出にあたって考慮される事項
世界の主要な法体系の代表であること
地理的均衡性
男女の割合が公平であること
女性及び児童に対する暴力などを含む特定の事項について法的専門知識を持つ裁判官を含めること

裁判官

出身国と任期
2009年1月現在、国際刑事裁判所裁判官(Judges)の構成は、女性7人・男性11人の計18名(通常は18名構成)。
出身地域はアフリカ地域3名、アジア地域3名、ヨーロッパ地域7名、北米地域1名、ラテンアメリカ地域4名である。

リストA(刑法や刑事訴訟法に関する知識・経験を有する裁判官)9名
ウガンダ、ダニエル・ダビッド・ンタンダ・ンセレーコ(Daniel David Ntanda NSEREKO)、2012年3月まで、男性
キプロス、ゲオルギオス・M・ピキス(Georghios M. PIKIS)、2003年2月から6年、男性
コスタリカ、エリザベス・オディオ=ベニト(Elizabeth ODIO BENITO)、2003年2月から9年、女性
ブルガリア、エカテリーナ・トレンダフィロワ(Ekaterina TRENDAFILOVA)、2006年3月から9年、女性
大韓民国、サン=ヒュン・ソン(Sang-hyun SONG)、2006年3月から9年、男性
フランス、ブルーノ・コッテ(Bruno COTTE)、2003年3月から9年、男性
マリ、ファトゥマタ・デンベレ・ディアッラ(Fatoumata Dembele DIARRA)、2003年2月から9年、女性
イギリス、エイドリアン・フルフォード(Adrian FULFORD)、2003年2月から9年、男性
ブラジル、シルヴィア・スタイナー(Sylvia STEINER)、2003年2月から9年、女性
リストB(国際法に関する知識・経験を有する裁判官)9名
ドイツ、ハンス・ペーター・カウル(Hans-Peter KAUL)、2006年3月から9年、男性
イタリア、マウロ・ポリティ(Mauro POLITI)、2003年2月から6年、男性
ガーナ、アクア・クエニェヒア(Akua KUENYEHIA)、2006年3月から9年、女性、裁判所第一次長
カナダ、フィリップ・キルシュ(Philippe KIRSCH)、2003年2月から6年、男性、裁判所長
ボリビア、レネ・ブラットマン(René BLATTMANN)、2003年2月から6年、男性、裁判所第二次長
フィンランド、エルッキ・コウルラ(Erkki KOURULA)、2006年3月から9年、男性
ラトビア、アニタ・ウサカ(Anita USACKA)、2006年3月から9年、女性
日本、齋賀富美子(Fumiko SAIGA)、2009年3月から9年、女性
ガイアナ、モハメド・シャハブディーン(Mohamed SHAHABUDDEEN)、2009年3月から9年、男性

2009年01月15日

高い鉄の精錬技術と鍛鉄技術

フラッド キャロ メッカ 輝きの季節 テアーゼ 上位シーン 枕千鳥 フェラテ マドラス ロマン カーボン ランク ソーホー タンプ パーティー タック ルトップ ハバナ スプレッ エンド オキサ スフマート らくだいろ ブタン カゲル キタス スタジャン ランチ シーネ ネッキ アビリテ オルガス ばなな みなせ クローバー キジムシ ガマ対策 モンテ ローコード コック ツァボラ メーター ごぼう ピギー ランナー エルシー こもづの チャド かてい ブルジュド

当時の日本は高い鉄の精錬技術と鍛鉄技術を有しており、鉄砲製造は急速に普及し、大量生産が行われた。 1575年の長篠の戦いでは、織田信長が大量の鉄砲を用いることで武田勝頼に大勝している(この頃、武器として銃を大量に所持していた国は日本だった) 。中国地方の口伝では門徒の間で蓬(ヨモギ)の根に尿をかけたものを一定の温度で保存することにより、ヨモギ特有の根球細菌のはたらきで硝酸が生成されることを発見したという。馬の尿とヨモギでそれは量産(当時にしては)された。これらは当時の軍事機密であったので厳重に守秘されて一般に広まることはなかったが、本願寺派に供給された火薬の主体であったようである。信長が驚いた本願寺の鉄砲の数は、実は弾薬の量に支配されるものであり、安価な硝酸がそれを支えたのである。

江戸時代に入り鎖国がなされると、国内で硝石を供給せざるを得なくなる。軍事用の火薬使用は激減したが、狩猟用として鉄砲が農山村に普及したため、一定の火薬の需要が存在したのである。汲み取り便所の壁から床下の土中に染み出した窒素に富む糞尿などから生じたアンモニアに亜硝酸細菌と硝酸細菌が作用するため、古い民家の床下の土壌には硝酸カリウムが蓄積している。これを原料とすることで硝石を生産した。床下土を用いた硝石の製造は江戸時代を通じて主流の方法であったが、同様に床下で硝石を生成する東南アジアの伝統的手法と異なり、豚などの家畜を大規模に飼育しない日本の民家では硝石の生成量が少なく、一度掘り出してしまうと20?30年間は採集できなかった。ちなみに、明治時代の秩父事件において、困民党は火縄銃等を用いて戦ったが、その銃に用いる火薬は前述の方法にて硝石を調達し、火薬を製造した。

江戸時代の越中五箇山(現在の富山県南砺市)や飛騨白川村では、積極的に硝酸イオンを蓄積させた焔硝土を用いて硝石を生産していた。焔硝土を用いる硝石の生産方法は、1811年(文化8年)に加賀藩の命令によって五十嵐孫作が提出した「五ヶ山焔硝出来之次第書上申帳」に最も詳細に記されている。主としてこの文書によると、合掌家屋のイロリ近くの床下を掘り下げてヒエの茎・葉を敷き、その上に良質の畑土、蚕糞、麻の葉・タバコの茎など栽培植物の不要部分、ヨモギ・アカソ等の山草を積み重ね、その上に人尿を散布して焔硝土を調製する。焔硝土から水で硝酸イオンを抽出し、抽出液を木灰で処理し、濃縮した後冷却すると硝石が析出する。この方法は毎年の再生産が可能な優れた製造方法であった。

1733年(享保18年)には隅田川花火大会が初めて行われた。これ以降、例年開催されている。

明治時代に入ると、南米のチリから莫大な埋蔵量を有した天然の硝酸ナトリウムであるチリ硝石の輸入を始める。硝酸ナトリウムは黒色火薬の原料の1つである硝酸カリウムの代わりとして用いることができる。

また、富国強兵政策によりヨーロッパから盛んに近代的な火薬技術を導入するようになる。日本独自の火薬技術も発展し、日本海軍に制式採用された下瀬火薬は、 その強力な破壊力から日露戦争では大活躍した。

チリ硝石
チリ硝石の生成原因にはさまざまな説があり、確定していない。 有機原因説としては、海草など植物起源説、野鳥の糞など動物起源説、無機原因としては稲妻など気象現象起源説、地殻活動による説などがある。 現時点で最有力視されているのは、最後の説である。[要出典]

火薬、爆薬の種類
黒色火薬
硝酸カリウム(硝石)75%、硫黄10%、木炭15%を混合したもの。花火の揚げ薬や大玉の割薬、導火線の心薬に用いられる。吸水性が高いため湿気に弱く、静電気や衝撃に敏感なため爆発事故も多い。以前は製造工場で原料を撹拌するローラーが容器の底と衝突して爆発する事故が多発したが、現在は容器の底と直接接触しないような懸架式ローラーになっているため、製造段階での爆発事故はほとんどない。花火などをほぐして遊ぶと、中に入っている黒色火薬が静電気や摩擦などで発火する場合があるため、花火に注意書きがされている。
通常の黒色火薬より燃焼速度、破壊力が共に大きい火薬を作るには、硝酸カリウムの代わりに、過塩素酸カリウムを使用する。塩素酸カリウムは大変危険な薬品であるため、扱いに注意が必要である。また、エタノール漬け炭素を使用することで、燃焼速度を上げることが出来る。
綿火薬
セルロース(脱脂綿等)を濃硝酸と濃硫酸の混合物により、硝酸エステル化することでニトロセルロースが得られる。爆発威力は小さいが、燃焼時の発煙が少ない「無煙火薬」として銃弾や砲弾の装薬に使われる。太平洋戦争末期には、民間から「ふとん」を供出させ、綿火薬を製造した。
下瀬火薬
ピクリン酸を主原料とした黄色の火薬で、腐食性、毒性を持ち、非常に鋭敏であるが、爆発力は高い。旧日本海軍で弾薬として用いられ、日本海海戦での勝利をもたらした一因とされる。取り扱いは難しく、しばしば砲身の破壊(筒発)を招いた。弾薬庫前での火遊びが原因とされているが、日露戦争後、戦艦三笠は同火薬の暴発事故により軍港内で着底している。
硝安油剤爆薬
硝酸アンモニウム(硝安)94%と軽油や灯油6%を混合した爆薬。非常に爆発しにくいが、安価な上、安全性が高い。硝安爆薬や Ammonium Nitrate Fuel Oil explosive から ANFO (アンホ)爆薬とも呼ばれる。
スラリー爆薬
硝安と水の混合物を主体とする爆薬。含水爆薬、エマルジョン爆薬とも呼ばれる。いろいろなタイプがある。
泥状で流し込むタイプは鈍感で強力な起爆薬が必要である。ゴム状で、やや感度を上げて雷管で起爆できるタイプもある。耐水性が強くANFOより起爆しやすいが低温に弱い。
たくさんの気泡を含ませることにより爆発しやすくなるので、中空のガラスビーズを混ぜる。
カーリット
過塩素酸アンモニウムを主体とする爆薬。日本では成分の違いにより黒、紫、樺、藍、青等に分けられている。カーリットの名前は発明者のスウェーデン人O・B・カールソンにちなむ。
ダイナマイト
ノーベルが発明した爆薬。ニトログリセリンは爆発感度が大きいため、取扱に危険が伴うが、珪藻土に滲みこませる、あるいはニトロセルロースと混合してゲル化するなどして固化すると爆発感度が下がり、雷管を用いないと爆発しなくなる。日本では「松」「桐」「榎(えのき)」などのグレードに分けられている。
ペンスリット
四硝酸ペンタエリスリット。ペンスリットの他、ニペリットとも呼ばれる。白色の結晶性粉末で化学式は C(CH2ONO2)4 である。爆発威力が大きい、熱に対して鈍感、自然分解を起こしにくい、など優れた特徴を持つ爆薬である。プラスチック爆薬の材料として用いられる。
TNT
TNTとは2,4,6-トリニトロトルエンの略称である。衝撃や熱に対してきわめて鈍感、毒性が少ない、金属を腐食しない、など優れた特性を持つため、爆薬として広く用いられている。火薬の代表として、核爆弾の威力を表す単位「TNT換算」に使用されている。TNT火薬は前述のとおり衝撃や熱に対し鈍感であるため、導火線では爆発しない、爆発させる時はTNT本体に雷管を埋め込んで起爆させて爆発させる。
ヘキソーゲン
シクロトリメチレントリニトラミン(1,3,5トリニトロ-1,3,5-トリアジナン)。ヘキソーゲンはTNTに代わる高性能爆薬として開発された。RDXの略称が用いられる。主に軍用。
オクトーゲン
正式名称 1,3,5,7-Tetranitro-1,3,5,7-tetraazacyclooctane(CAS).Octahydro-1,3,5,7-tetranitro-1,3,5,7-tetrazocine(IUPAC) 。別名にシクロテトラメチレンテトラニトラミン, HMXなどがある。
過酸化アセトン
過酸化アセトン(かさんかあせとん、 Acetone Peroxide )は有機過酸化物の1種。高性能爆薬として使用される。最近ではロンドン同時多発テロで使用された。
笛薬
安息香酸カリウムと過塩素酸カリウムの混合物である。燃焼時に高い音響を発生し、「笛ロケット」という種類のロケット花火等に使われる。
ニトログリコール (nitroglycol)
二硝酸グリコールとも呼ばれる。ダイナマイトなどに使用される。
ピクリン酸
フェノールをニトロ化したものである。トリニトロトルエンより破壊力がある。
コンポジション爆薬
混合爆薬の一種で、A-3・B・C・C-4などの種類がある。
PBX爆薬
砲弾やミサイルの炸薬として広範囲に使用されている。
ヘキサニトロヘキサアザイソウルチタン (HNIW)
現時点で量産可能な爆薬としては最大の威力を持つ。
FOX-7
研究中の高性能爆薬、実用化はされていない。
トリアミノトリニトロベンゼン
実用爆薬中、最も安定性が高い爆薬で高い信頼性を要求される用途に用いられる。